twitterでフォロワー9万人越え(2019年1月現在)の上馬キリスト教会さんの、主日礼拝(日曜礼拝)に参加させていただきました。
その訪問記をまとめておきます。
私は小学校高学年の時1年半ほど、同級生に誘われて教会の日曜学校に通っていましたが、クリスチャンではなく、ミッションスクールに通っていたこともありません。
大学時代の人文系の履修科目や、現在は劇団四季の作品や英米文学作品の中でキリスト教の世界に触れており、今回、教会に行かせていただいたもの、「作品のベースとなる考え方をより理解したい」という動機です。
上馬キリスト教会って?
上馬キリスト教会は、東京都世田谷区にあるプロテスタント、メソジスト系の教会です。
キリスト教や聖書についての「ゆるい」というか、親しみやすいツイートで有名になりました。
多くの方は、世界史の授業で、キリスト教にはカトリックとプロテスタントがある、と勉強したことがあるんじゃないかと思います。
プロテスタントの中でも、いくつか種類があるんですけれど、「メソジスト」と聞いて私がまっさきに思い浮かべるのが「赤毛のアン」です。
物語の中では長老派教会とメソジスト教会があって、アンが養子として迎えられるカスバート家は長老派教会に通っています。
初めて教会の礼拝に行くときの用意
この辺は上馬キリスト教会さんの本「世界一ゆるい聖書入門」を読んでいただいた方がいいかと思いますが、私がどうしたか、も書いておきますね。
持ち物
礼拝中は聖書を読んだり、賛美歌を歌ったりするので、旧約と新約の聖書、賛美歌集が必要なんですが、聖書や賛美歌の楽譜は教会で貸し出しがあります。
私は勉強のために購入した聖書(新共同訳)があったので持参しましたが、牧師さんが読まれる聖書とは日本語訳が違いました(苦笑)。
その他、特別な持ち物は必要ありません。
服装
「赤毛のアン」の中だと、週に一度の礼拝は、女性は「一番よい服を着ていく」のですが、なにせ女性は普段着もドレスだった19世紀のことなので、今とはかなり感覚が違いますよね。
実際に教会に行ってみると、牧師さんやなにか役がありそうな男性はスーツ、あとはジーンズの方もいました。
礼拝の後、何かを作成したりする奉仕活動に参加される方もいらっしゃるので、普段着が基本のように感じました。
私は午後知り合いの発表会に行く予定があり、多少きちんと感のある服装だったんですけれど、スーツの男性もいるので、それはそれで大丈夫でした。
礼拝中に献金袋が回ってきますが、これは任意。
任意といいつつ、出さないと気まずい、といった感じは全くないです。
上馬キリスト教会の場所
駒沢大学前駅の西口を出たら、高速道路沿いにまっすぐ進みます。
大阪王将とひものやの間の角を右折してしばらく進むと右手に教会があります。
とても簡単な道順なのですが、駅から10分程度歩きますので、大雨や酷暑の日は注意が必要。
渋谷駅から、渋谷12(二子玉川駅行)、または渋谷82(等々力行)のバスに乗り、「駒沢」で降りると徒歩2分程度です。
教会に着いたら
教会に入ったら「初めてです」と伝えて、ノートに名前を書き、週報を受け取り、聖書や賛美歌の本などをお借りします。
ちなみに、外履きを脱いで上がるスタイルでした。
席は自由だそう。
バレエスタジオとか、スポーツクラブで、常連さんの位置が決まっていて、初めての人がそこを使うと気まずい、とかいうことがありますが、上馬キリスト教会ではそういうことはあんまり気にしないで空いている席に座ればいいみたいです。
礼拝ってどんなことをするの?
いただいた「週報」に礼拝の進行が書かれていました。
何度か、お祈りをする、文章をみんなで読み上げる、賛美歌を歌うタイミングがあり、
聖書の一節を読んで、その箇所をテーマにした牧師さんのお話を聞き、
献金、聖餐式などが行われます。
この日はたまたま、洗礼式もありました。
礼拝が始まるまでは賛美歌のピアノ演奏=前奏が流れていて、あー教会だなぁという雰囲気。
私が小学校5、6年の時日曜学校に行っていた教会はオルガンでしたが、ここはピアノ。
礼拝はとくに始まりの合図等はなく、時間になったらいきなり牧師さんのお話が始まります。
立ったり座ったり、は都度、声をかけられるので大丈夫。
賛美歌は、おそらくはまるで知らない曲かと思いますが、周囲に合わせて歌えばOK。
昔歌ったな、という記憶のある曲は見事に1つもありませんでした。
というか、賛美歌ってめちゃめちゃ種類が多く、本も分厚いのです。
そうそう、この日歌った曲の中に「キリエ・エレイソン」がありました。
そうです「ノートルダムの鐘」で何度か「キリエ・エレイソン」という歌詞がでてきますよね。「主よ あわれみを」です。
アラン・メンケンの曲でないのはもちろんですが、本物の賛美歌もキリエ・エレイソン、という歌詞で何曲かあるようでした。
聖書朗読とそれに続く牧師さんのお話は、旧約聖書の「ヨブ記」、一応、エピソードとしては知っている箇所でした。
ヨブはその町のいわゆる名士で、家族にめぐまれ財産もあり、信仰の篤い人だったのに、どういうわけかエラい目に遭わされます。
当然、ヨブは「なんで?」と思い、3人の友人は神の罰だ、ヨブは何か罪を犯したに違いない、と言います。
ヨブは友人たちに猛反発し、友人たちがヨブに反論できなくなると、今度は突然エリフという人が現れて、ヨブの主張を認めると神が間違えていることになる、と怒ります。
38章は、いよいよ神が自らを表してヨブに語りかけるところで、「神が嵐の中から語りかけた」というのは聖書の他の箇所にはないそう。
物語の形をとっているので、誰が出てきて何が起こったか、は分かりやすいけれど、やっぱり理解するのは難しいなあ。
ヨブ記のポイントは、神のはからいは人間には理解できないことがある、とか悪いことが起きても単純に因果応報ではなく別の意味があることもある、ということのよう。
ヨブ記を読んで思い出したのが、「アルプスの少女ハイジ」(原作の方)。クララのおばあさまにお祈りを教えてもらったハイジは、「早くアルムの山に帰らせてください」とお祈りしますが、一向に帰れないのでお祈りをやめてしまい、おばあさまに諭されます。
後になって、ハイジは「あの時すぐに帰れていたら、クララは歩けるようにならなかったし、ペーターのおばあさんにたくさんパンをあげることもできなかった。本当に良いことが何かは神様にし分からない」と言います。
教会は「コミュニティ」
「教会」とは、イエス・キリストを信じる人々の集まり、という意味なので、そりゃコミュニティなんですが、実際に、礼拝に参加させていただいて、「コミュニティであること」をところどころで感じました。
洗礼
たまたま、私が行った日には、洗礼を受ける方がいらっしゃいました。
洗礼槽を使うスタイルなのがびっくりでした。
(内心、
!!!!!!(゚ロ゚屮)屮
という感じでした。)
近くに来ていいですよ、と牧師さんが言われて、教会のメンバーの方たちは洗礼層を囲んで写真を撮ったりしていましたが、私はさすがに遠慮しました。
※洗礼式の執り行い方は教会によっても違うそうです。
また牧師さんが、「会衆の皆さんは洗礼の立会人です」とおっしゃっていて、この場合、私も会衆なのかな?と考えたりしました。信徒ではないけれど、礼拝の場にいたのでそういうことになるのかな。
洗礼を祝福するみなさんが、手拍子して歌っている様子などは、日本の地域のお祭りと同じような印象を受けました。
聖餐
洗礼のあとに聖餐式がありました。
「ノートルダムの鐘」の1幕最初の方で、カジモドがフロローからぶどう酒・パンを受け取り、それをいただく場面、
「主イエス・キリストの御血」
「アーメン」
「主イエス・キリストの御体」
「アーメン」
という、あれです。
といってもあの通りなわけはなくて、上馬キリスト教会では、台の上に置かれているぶどう酒とパンを、信徒の方が受取に行き、席に戻っていただく、という形です。
聖餐用の器は2つあり、右にぶどう酒、左にパン(クラッカーのように見えました)が入っていました。
聖餐式用の器(ぶどう酒のコップもセット)は、教会用品を扱うお店で販売しています。
聖餐式は、主イエス・キリストの弟子が行うものなので、礼拝に参加していても信徒でないものは聖餐式には参加できないのですが(参加できる教会もあるにはあるらしいですが、ちょっと遠慮しますね・・・)
逆に信徒の方は、世界のどこの教会でも参加できるそう。
「世界のどこの教会でも参加できる」というところも、教会がコミュニテ=つながりであることを感じます。
※ぶどう酒は、ノンアルのジュースも用意されているそうです。
まとめ
この日は、私の他にも2、3人初めての方がいらしていました。
やはりTwitterの効果はすごいですね。
ちょうど、本が出版されて間もないころでもありましたし。
初めての人は(入口のノートに書くので)名前を紹介されましたが、皆さんに向けて会釈したくらいで、何か感想を言うとかは無かったです。
Twitterでのゆるさと、礼拝のまじめさのギャップを感じた、というよりも(自分としてはそこはあまりなかった)、
信仰を持たない自分は、神に全てをゆだねる「信仰」に対してはやはり一線はあるな、と思いました。
礼拝に参加させていただいて、教会はそんなに敷居が高い場ではないんだな、とは感じましたが、それと、自分が「神にゆだねます」という信仰告白をすることとは、相当な距離があるんですよ。
お寺を拝観するのが好きなのと、出家して僧侶になることだって別ですし、今のところ自分の人生に仏門に入る選択肢はなさそうなので、それと同じようなものかと。
一方、ヨブ記の、起きることの良し悪しは人間の知恵では分からない、というようなことは、信仰ではない場で言われることでもあるし、いや、やっぱりそんなに遠いものでもないのかな?と思ったりもします。
子どもの頃以来、超・久しぶりの礼拝でしたが、教会の皆さんに+-温かく&さりげなく迎えていただいて、心地よく過ごせました。
ありがとうございました。