こんにちは、あおなみ(@aonami491)です。
この記事は、劇団四季ファミリーミュージカル『はだかの王様』の原作、寺山修司が「絵本ミュージカル」として書いた戯曲「裸の王様」を読んだ感想です。
寺山修司の戯曲そのままのほうはもっとヤバかったです。
舞台との違いに触れるとどうしてもネタバレになってしまうので、
バリバリネタバレで書きます。
これから読む予定で、ネタバレがいやな方は、
最初に「どこで読めるか?」について書きますので、そこで離脱してください。
寺山修司「裸の王様」が読める場所
「裸の王様」は1968年に、新書館から単行本として刊行されました。
1994年にマガジンハウスから出版された「寺山修司メルヘン全集8」にも収録されていますが、どちらも現在は古書でしか入手できません。
この記事を書いているときにamazonマーケットプレイスで6,000円もしてびっくりしました。
カーリルで各地の図書館の蔵書検索をして、図書館で借りたり、閲覧したりするのがよいですね。
「メルヘン全集」の方はわりとあるみたいです。
私は、今回は都立中央図書館で閲覧しました。
原作と同じ部分、違う部分を比べるととても面白いと思いますので、図書館で読んでみることをお勧めします。
寺山修司「裸の王様」の登場人物
劇団四季『はだかの王様』のキャスト表でおなじみの名前もあるし、ミュージカルには登場しないキャラクターもいます。
寺山修司「裸の王様」の感想
ここから後はネタバレです。
寺山修司「裸の王様」では、「王様は裸だ」というのは進行役の子供ホック。
ペテン師スリップ、スリッパの「役立たずやとびぬけた馬鹿には見えない服」という巧妙な嘘に対して、
見栄や猜疑心から本当は見えないと言えず、その嘘を成立させ続ける王様とその周囲の人々、
アップリケの、「自分の安全のためにも、王様のためにも調子を合わせておいた方がいいんだよ」という狡さ、
に対する
ホックの、
「もう絶対にだまされないぞ」
という言葉に、寺山修司「裸の王様」のテーマが表れているのではないかと思います。
劇団四季ファミリーミュージカル『はだかの王様』では真実を告げる勇気に焦点があてられており、
進行役として物語の外側にいるホックだけではなく、
物語の内側のキャラクターたちの中にも、本当のことを見抜いて、自分を信じて行動するものが登場します。
寺山オリジナル版(寺山版)と四季版の違いで、まずはっきりと分かるのが、アロハとデニムです。
寺山版では、アロハが養豚場のせがれで、王様はアロハの服装に文句を言いながらも、王女ポケットとの婚約を認めます。
四季版では、王女サテン(王女の名前も違いますね)の恋人はデニム、という牧場育ちの青年。
しかし王様は身なりをあまり気にしないデニムが気に入らず、派手好きの運動大臣アロハとの婚約を決めてしまいます。
そして、四季版では、純朴で誠実な若者デニムがクライマックスの舞踏会で「王様は裸です」と告げるのは、
あくまでの、王様に目を覚ましてもらうため、そして、サテンとデニムの結婚を認めてもらうため。
寺山版のアロハと四季版のデニムは、どちらも、畜産業にかかわっているのですが、
アロハの家業である養豚の目的はお肉をとるためですから、セリフでも屠畜に関する話題が出てきます。
デニムの仕事の詳細は劇中で語られませんが、ホルスタイン柄の服で酪農であることが暗示されていると思います。
その他にも寺山版は、昭和40年代以前らしい社会の暗い部分をうかがわせるような描写が見られてそこが面白さではあるのですが、
現在の作品として、子供たちに見せるには、バランスが難しそうな点でもあります。
猫の葬列の時、スリップ・スリッパと会話するブリーフは、寺山版ではせむし男ですが、四季版では、従者の一人、となっています。
警察と赤十字の管轄争いのために、おぼれそうなまま放置されているのは、寺山版では少女、四季版では男の人。
(大人なら放っておいていい、というわけではないですが、子供と大人ではやはり印象が違います)
寺山版では、王女ポケットが、ステテコ・モモヒキに作業場を偵察させるのは、早くアロハと結婚したいためで、
「服ができ上がったらアロハと結婚しなければならない」と沈んでいる(ここで王女サテンの「7つの海のお月様」というきれいなソロがあります)四季版とは正反対です。
ペテン師スリップ・スリッパが作っているのは、
王様、王女、王女の婚約者の服なのですが、
四季版では、デニムが「バカには見えない服なんてそんなものあるものか」と断言したおかげで、
「あの布は本当にあるのでは?」と揺らいでいたサテンは「それじゃ私はあなたのために作ったウエディングドレスを着るわ」と決心。
王女が舞踏会にはだかで出席する事態は回避されます。
しかし、寺山版では、ポケット王女もペテン師たちの服=はだかで登場してしまうのです。
そして、登場人物のほぼ全員がだまされているか、見えるふりをしてやり過ごそうとしている中で、
ホック1人が「王様は裸だ!」と叫んだことで、町の人たちもそれに同調し、王様、王女、アロハはみんな逃げ出してしまう、というのが結末です。
四季版では、アロハがちょっと気の毒なことになりますが、
ペテン師たちの嘘に気が付いたのに、王女と結婚したいという打算のために黙っていた、という前フリがありますからね・・・
戦争大臣ブリーフは、
寺山版では、布が見えないと言ってクビになると翻意してさらに恥をかく、ひたすら情けない人物。
四季版では、身なりに無頓着な無骨ものゆえ「そんな布なんかあるわけないだろ」と言ってクビになりますが、
それでもちゃんと敵をやっつけてきて、クライマックスでデニムたちを助ける、かっこいい役回りになっています。
どちらが先なのか?
劇団四季での『はだかの王様』初演(当時は「ファミリーミュージカル」ではなく、「子供ためのミュージカルプレイ:でした)が1964年、
寺山修司の「裸の王様」が本として出版されたのは1968年です。
本になった「裸の王様」の内容がまずあって、そこから浅利慶太氏がミュージカルに翻案したのか、
四季版も初演当時は、出版された寺山版により近い内容だったのかは分かりません。
(もちろんあざみ野の四季芸術センターには初演当時の台本はあると思います。)
寺山版には、機織りの場面でお針子の1人を女装した男性がコミカルに演じてもよいなど、演出プランが書かれている部分はありますが、
あくまで、読み物として書かれている感じで、具体的な上演台本とはちょっと距離があるように思え、
実際に舞台にするにあたっては、初演の時もだいぶん、手が入れられたのではないかとは思いますが。
寺山版に近かったとして、いくら昭和30年代でも、劇団四季で王女が見えない服を着て下着姿である、という場面はなかったんじゃないかとは思いますが・・・
感想まとめ
寺山版の描き方は、嘘や、なあなあのごまかしに対する切れ味が鋭い。
進行役のアップリケのセリフに、”大人のずるさで”という注が付いていたり、皮肉が強いんですよね。
一方で、人の愚かさだけではなく真実を見ぬいて行動できる姿も描いている四季版はやはりファミリー作品としてバランスが良いと思います。
観劇感想にも書きましたが、
ハッピーエンドになっても、だます手口、だまされる心理のこわさはばっちり伝わりきましたし、けっして、甘口作品ではないところがすごいです。